過去の記念講演 |
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| はじめに |
私たちは、剣道を豊かにするためには他の分野を学ぶことも重要だと考えています。剣道をする人々の多くは、稽古の積み重ね、その1本1本を大切にしています。そのこと自体はとても立派なことです。しかし、その結果、経験でものを考える傾向にあるようです。せっかく得られた経験を客体化し、みんなのものにしていくことはあまりありません。剣道では未解明で、みんなのものになっていないことでも、他の分野では解明され、知られていることもあるはずです。何よりもまじめに物事に取り組んでいる姿は分野を越えて、人の心を打ち、魅了するでしょう。 第1回〜第10回の要旨は『のびのび剣道学校』(大塚・宇都宮・坂上編著 窓社 1990年)から抜粋しました。但し、縦書き本文を横書きに、漢数字はアラビア数字に改めさせていただきました。 |
| 第1回「明るい剣道をめざして」 奥川金十郎氏(範士八段・全国剣道協議会会長) |
氏は戦前から警視庁で剣道を修行し天覧試合にまで出場した剣道家である。幼少から闘鶏を育てることが趣味で情熱を傾けたことでも知られている。戦後は三重県の熊野市に戻り、母子寮を運営するかたわら剣道の指導をしてこられた。 毎年京都大会ではその凛とした剣風を披露されていた。氏の剣道修行のエピソードを交えたとつとつと明るい語り口に、これまで歩んでこられた道のりに思いを馳せ、剣道を志す者にとってズシリと腹に響くものを感じた。また「幸せに生きるために、剣道を通して、生活を広げ、豊かにし、明るい社会を築こう」と訴えられた。 (第1回全国剣道学校・1979年7月・大阪) |
| 第2回「民族文化とは何か」 進藤貴美子氏(舞踏研究家・都立北多摩高校) |
進藤氏は、日本の民族舞踏は、「日常の労働の動きが、舞踏的に形象化されてきたもの」であるとし、「農耕民族としての膝下空間の支配力」と剣道の身体運動との共通点について語った。何かをやる場合に、「やって楽しいと思わないと意味を見いだせない」そして、「日本の優れた舞踏文化遺産に触れることは、あらためて外国の特徴、あるいは独自性を捉え直してみるようになる。そうすると自国のものも、また逆に捉え直しができる」「剣道は武道か、スポーツか、そんなことで目くじらを立てる必要はなく、スポーツも直輸入した形で、そのまま再現することはありえず、日本的な形で受け止め、発展させている」という話も印象的であった。 講演の後で、進藤氏の指導で皆で楽しく踊った。剣道の経験が長い人ほど腰の動きが悪く、ぎこちない踊りになった。 (第2回・1980年5月・山中湖) |
| 第3回「文化の喜びを皆のものに」 玉井徳子氏(統一劇場) |
玉井氏は「あんちゃん」の公演をとおして劇団運営としての経験を話された。地方公演を組織するには準備のために事前に100人くらいの人と会うこと。一方的に与えられる喜びでなく、観客自身も舞台を創っているという一体感が観客も身を乗り出してくるような舞台となる。 このような関係を大事にしていること、そのためには人を信じ、人間の可能性を信じて、一人よがりになってはならないことなど、私たちがクラブを組織したり、運営したりするとき、集団にかかわりあううえで示唆に富む話であった。 (第3回・1981年10月・山中湖) |
| 第4回「走るロマンを求めて」 山西哲郎氏(市民ランナー指導者・群馬大学助教授) |
人間には自然の子(小さい頃にある心で、夢がある)と世間の子(夢破れ、あきらめ、退廃的になってくる)があり、この二つの葛藤の中で生きている。走るというのは単調だが、そこには自然の子が生きている。 人間は自然の中にいると前向きになる。走ることはあまりに競争させられてきた。速い人は好きになり、遅い人は嫌いになる。結果ではなく、過程を大切にして楽しくやってしまう「楽走」と自然の中で自然と一体になって走る「自然走」をすすめたい。旅=他燎(たび)とは他の土地で食事を囲んで話ができること−人との出会いである。 「初心者であっても自分なりに楽しんでいる人が名人」と楽走や自然走に共通なロマンを感じ励まされた。 (第4回・1982年10回・山中湖) |
| 第5回「新しいクラブの創造を」 増岡敏和氏(詩人・サークル運動研究家) |
氏はクラブ運営のポイントについて話された。青年は「成長したい、責任を持ちたい、認められたい」という要求を持っている。クラブの目的や意義は「剣道をテコに、コミュニケーションと協力・共同を通じて、自己発展を求めながら、個々人の要求の実現をはかる」ことであり、一人ひとりは「剣道がしたい、剣道がうまくなりたい、剣道をとおして友人が欲しい、剣道と友人をとおして自己発展したい」という要求を持っているが、練習を続けていく中で、「個人の目標とクラブ全体の目標が出てくる。その際、この二つの目標という“二頭立て”のプランが必要になる」、個人の目標も皆に知ってもらい、個人とクラブ全体の目標を全員にわかるようにすること。さらに、クラブ運営については「一方通行でなく多角通行であり、教えた者が相手の反省する姿を見て、そこから学んでいくという生き方を含めた学びあいがある」。 運営のポイントとして三つの中心「生き方中心、励まし中心、例会中心」。三つの大切「連絡重視、批評重視、新人重視」。そして討論を行うこと。決して多数決はとらない。10人のうち1人が反対しても9対1というようにはしない。この一人は他と違う知恵を持っている。この一人に保留を求め、実践して再度話し合う。私たちが所属するクラブにあてはまることであり、新鮮な魅力と希望を与えてくれた。氏の指導で散策の時間に「ひたすら頭を使わない集団」が詩づくりに熱中した。 (第5回・1983年10月・山中湖) |
| 第6回「スポーツ集団の人間関係」 出原泰明氏(体育学者・日本福祉大学助教授) |
スポーツ集団の人間関係をどう考えるか、技術を学び合う集団とはどうあったらよいか、スポーツ集団の中で他人との関係をどうつくっていくかを話していただいた。 日本のスポーツ集団は、根性、上下関係で結びつく傾向がある。「へたな人は、技術をまだ習得してない人、教えてもらうようになってうまくなる人、よりうまくなる喜びをもっともっと味わえる人」である。しかし個人差はある。技術の習熟速度は違う。ある段階を切り取って、この人は出来るとか出来ないとか決めるのはまちがい。うまい人は未来の自分、へたな人は自分の過去、うまい人とへたな人は一本の糸でつながっている。命令とか、権威とか、上下関係とかがスポーツ集団との接着剤ではなく、集団を支える一番のものは「スポーツの技術、剣道の技術をともに共有することである」。これがうまい人もへたな人も皆仲間なんだという連帯感、感動を作り上げていく大きなエネルギーになっていく。氏の話に剣道の集団によく見かけることを指摘されハッとなった。 氏は名古屋から山中湖までナナハンのオートバイを飛ばしてやってきた。 (第6回・1984年9月・山中湖) |
| 第7回「日本・ヨーロッパのスポーツの歴史と伝統から」 唐木國彦氏(体育社会学者・一橋大学教授) |
「日本と外国のスポーツの違い」について世界のどの国もスポーツについて優れたところもあるけれども問題も抱えている。日本は東京オリンピックを境にして、皆がスポーツをするようになり、スポーツをしようという意識が高まり始めた。このことはスポーツが発展する有利な条件ということができる。第二に日本ほど学校体育が盛んな国はない。第三に学校にスポーツ施設がたくさんある。しかしこのような施設を使いたいと思っても自由に使えない。行政上も学校教育と社会教育という仕組みの問題がある。 また市や町や村などがお膳立てした大会や教室が多く、そこでは自分たちで教え方をどうしよう、施設をどうしようということにはなりにくい。自分たちで道を切り開いていくということがない。自分たちがスポーツをやっていく場合に、生活に根ざしたスポーツをやる。スポーツの多様性を認め合うこと。他のスポーツの価値も認める。個性を認め合う。同じようにチャンピオンスポーツから初心者クラブまで、多くのスポーツマンと手を結び、施設の開放や指導者の養成に取り組む。そのためにスポーツマン、クラブの自立・主体性が求められている。 (第7回・1985年11月・山中湖) |
| 第8回「ドーバー海峡泳いじゃった」 大貫映子氏(日本で初めてのドーバー海峡横断者) |
ごく普通の女性が知り合いや仲間の広がりと励ましによって、ドーバー海峡横断をなし遂げた。ドーバーに行ってみたら他にも仲間がいて、さらに仲間が広がった。必死で泳いでいる最中も伴走の船の船頭さんたちが励まし皆が応援してくれた。そのことの意味を理解しているからこそ、失敗しても成功しても励ましがあり、喜びや悔しさを共有できる。意味を理解していない人は失敗すると批判ばかりする。一回目のチャレンジで失敗したとき、日本では“残念だったですね”となぐさめられ、イギリスでは“次はできるよ”と励まされた、という。 自由にのびのびとごく自然に肩肘はらず。新しいことを発見した楽しさ、仲間や友達が広がった喜び、新しい挑戦は新たな何かがある。その発見が楽しいから新しいことをやってみる。そんな自然流アドベンチャーの世界を実に自然に話された。 (第8回・1986年11月・山中湖) |
| 第9回「素人顧問がつかんだ剣道指導の“極意”」 淡路克浩氏(山梨県立都留高校教諭) |
剣道部の顧問のなり手がなく、試合に出られなくなった生徒からの依頼によって顧問を引き受けた。剣道は全く初めて。地元の剣道家から指導を受けていたが生徒が余りに弱くて、来てくれなくなった。そこで出会ったのが『のびのび剣道』という本。生徒と葛藤の中で自分なりにメニューをつくり生徒に与えた。更に激しい生徒とのクラブ運営や練習内容をめぐってのぶつかり。自分を丸ごと生徒の前にさらけ出し、とことんぶつかった。そして三年後に県大会で入賞を果たした。 技術を中心にした集団運営、素人顧問が一冊の本を頼りに自分なりに創意工夫した練習メニュー、集団が一つになり自ら求めて練習したことなど、第五・六回の増岡、出原講演を実証したような内容であった。 (第9回・1987年10月・山中湖) |
| 第10回「弓への挑戦」 平勲氏(烈アーチェリークラブ) |
氏は下半身付随で車椅子での生活である。車椅子バスケットは頭を振るから嫌いだという。身体に障害をもちながらも「美」を求めてやまない。氏はきり絵のプロでもある。国際大会の経験から欧米には選手より若いコーチがいるという話。そして、よくしゃべるし、底ぬけに明るい。健常者の私たちの方が根暗な感じを持った。何にでも興味を持ち一生懸命に生きているということが、これほどまでに人間を明るくするのだろうかと考えさせられた。 (第10回・1988年10月・山中湖) |
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